よい先輩とは
人の手本には2パターンある。
模範と反面だ。
模範は、その人が他人のお手本となるような相応しい行為を指す。
反面は、反面教師という言葉の通り、ああはなりたくないと判断される行為を指す。
人格形成の段階では、模範を示す人が周囲には多い。
子どもの前で非道徳的な行為に走る人も世の中にはいるが、学校に行けば、模範が簡単に手に入る。
ところが社会に出ると、おや?と感じることがままある。
これは成長したことで必然的に起こるものだが、よいお手本が大人になればなるほど見つからない。ひいては、生きていく上で常に悩みとしてつきまとう。
私のようにならないでほしいと、人生の先輩がありがたくも仰ることは、とても謙虚な姿勢である。
しかし。
これを目指してはいけない、と知らされる一方、ではどこに自分は向かうべきかという新たな悩みが生ずる。
後輩と共に悩むのも悪くはない。
むしろ、自分だって手本探しに悩むのだ。
この理想の姿を探す旅は誰もが経験するからだ。
その苦労を分かち合うことはできる。
だが、もし、悩む後輩を救ってやりたいと心から思うのであれば、模範を示し続けることこそ、先輩ができる唯一の解決策である。
前置きは長くなったが、僕はこう考える。
どう思われようが、
先輩は後輩に対して模範となるような人間であることを示す必要がある。
常に模範的であるよう振る舞い続けなければいけないし、後輩の前で迷ったり、消極的な態度を絶対に見せてはならない。
なぜか。
先輩の行為を見た後輩の反応は2つ。
賛成か拒否かだ。
ここで注意しなければならないのは、
模範か反面かを判断するのも後輩であり、また、自身もそれを模倣するか否かを判断するのもまた後輩であるという点だ。
いくら毎日腕立て伏せを100回するのが奨励されていたとしても、
それを運動が苦手な人が真似したくなる世界はおそらくないだろう。
筋肉がこの世の全てという価値観に世界中の人間が染まらない限りは。
後輩の価値観を無視したまま、模範を示しても、あまり効果はないように感じられる。経験則的に、それはわかる。
かと言って、模範を無理強いすれば反発が生じる。
いくらそれが仕事に必要でも、真似できないことがある。
人が努めてやってみようと思うのは、
確実に他者から感謝される行為だけだ。
そして、誰でもできる、ハードルが低くてシンプルであればあるほどよい。
このことを念頭に、部下をもつ。